2025年にアニバーサリーを迎える作曲家
あけましておめでとうございます!
2025年にアニバーサリーを迎える10人の作曲家を紹介します。この機会にぜひ多くの作品に触れてみましょう。
東京・神楽坂にある音楽之友社を拠点に、Webマガジン「ONTOMO」の企画・取材・編集をしています。「音楽っていいなぁ、を毎日に。」を掲げ、やさしく・ふかく・おもしろ...
生誕500年! ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(1525頃〜1594)
ルネサンス後期イタリアを代表する作曲家。パレストリーナとい名前はローマ近郊の出生地に由来します。外国出身の音楽家が支配的な時代のローマ音楽界にあって、イタリア人ながら大きな名声を集め、数多くの宗教曲を残しました。彼が言葉を聴き取りやすくするため合唱に用いた簡素なスタイルの対位法は「パレストリーナ様式」と呼ばれ、現在まで対位法の学習科目となっています。ヴィクトル・ユーゴーはパレストリーナを「カトリック音楽の父」と呼び、ヴァチカンは20世紀に入ってその作品を「宗教音楽の規範」とするなど、後世まで影響の強い作曲家です。
生誕200年! ヨハン・シュトラウス2世(1825~1899)
「ワルツ王」「ウィーンの太陽」「ウィーンのもう一人の皇帝」などの異名をもつヨハン・シュトラウス2世。ヨハン・シュトラウス1世の長男としてウィーン南のザンクト・ウルリッヒで生まれ、幼い頃から父親の影響で音楽家に憧れるようになります。しかし、父ヨハン・シュトラウス1世はそれに反対し、親子の確執は相当なものだったようです(参考記事:作曲家の父子関係~バッハの3人の息子たちとヨハン・シュトラウス親子の確執)。ヴァイオリンを壊される、習っていたヴァイオリンの先生を解雇されるといった父からの妨害も乗り越え、教会オルガニストに和声を中心とした楽典を学びます。そして1844年、自ら楽団を作りデビュー公演を行ない、ロシアやアメリカでの公演も成功させます。ワルツやポルカだけでなく、オペレッタにも進出し、《こうもり》などの名作を残しました。私生活では結婚を3回し、離婚して再婚するために国籍を移すなど、行動的な人物でした。
生誕150年! モーリス・ラヴェル(1875~1937)
フランスの南西部、スペインとの国境にあるバスク地方シブールで生まれ、生後3か月でパリに移りました。母の出身地であるバスクは、生涯ラヴェルの音楽に影響を与えます。パリ音楽院に学び、フランスの作曲家の登竜門「ローマ賞」に何度も挑戦するも落選。これは「ラヴェル事件」として、パリ音楽院のシステムまで変える騒動となります。ドビュッシーの少し後の世代として、第1次世界大戦をはさんで重要な作品を発表、近代フランスを代表する作曲家として生前から評価されました。晩年は脳の病気に苦しみ、作曲活動を再開できぬまま亡くなりました。
生誕150年! フリッツ・クライスラー(1875~1962)
「愛の喜び」「愛の悲しみ」「美しきロスマリン」などの名曲で知られるフリッツ・クライスラー。ウィーンで生まれ、音楽好きな医師のすすめで3歳からヴァイオリンを始めました。7歳で特例でウィーン高等音楽院に入学し、10歳で首席で卒業。なんとあのブルックナーに作曲も習いました。その後、パリ音楽院に入学し12歳で首席で卒業してしまう神童でした。高等学校では医学を勉強するものの合わなかったようで、その後はオーストリア帝国陸軍に入り、一時は軍人になることも考えましたが、家庭の都合で除隊し、再び音楽の道に進みます。作曲も始め、ベルリン・フィルとの共演がイザイに絶賛されるなど、演奏活動も軌道に乗りますが、その後は2度の大戦の影響を受け、最終的にはアメリカに移りました。1923年には来日公演も行ないました。
生誕100年! ピエール・ブーレーズ(1925~2016)
フランス・ロワール地方モンブリゾン出身の作曲家・指揮者。パリ音楽院のメシアンのクラスなどで学びますが中退し、ヴェーベルンの弟子レイボヴィッツからセリー音楽を学びました。キャリアの初期からセリー音楽、電子音楽、偶然性の音楽の分野で重要な役割を果たし、音楽の進化に関する極論的な見解は、時に物議を醸しました。
指揮者としてはクリーヴランド管弦楽団の首席客演指揮者、BBC交響楽団の首席指揮者、ニューヨーク・フィルの音楽監督を務め、晩年まで多くのオーケストラに客演しました。またポンピドゥー大統領によってパリに創設されたIRCAM(音響・音楽の探究と調整の研究所)の初代所長に就任、現代音楽を専門とするアンサンブル・アンテルコンタンポランの創設者でもあります。2015年に開館したフィラルモニー・ド・パリ内のシンフォニーホールは「ピエール・ブーレーズ大ホール」と名付けられています。
没後200年! アントニオ・サリエーリ(1750~1825)
北イタリア・レニャーゴに生まれ、パドヴァ、ヴェネツィアで音楽を学びました。15歳でウィーンに移るとオペラで成功、皇帝ヨーゼフ2世によって宮廷作曲家に任命され、最終的には宮廷楽長を務めました。経済的に成功していた彼は、才能ある弟子(ベートーヴェン、シューベルト、リストも教えを請けている)を無償で教え、慈善活動にも熱心でした。晩年にはウィーン楽友協会の指導者に就任し、楽友協会大ホール「黄金のホール」の設計にも携わっています。映画『アマデウス』でも描かれている「サリエーリがモーツァルトを毒殺した/しようとした」という噂は、サリエーリの生前から出回っていたが、それを裏付けるものはなにひとつない。
没後150年! ジョルジュ・ビゼー(1838~1875)
ビゼーはパリで声楽教師の父とピアニストの母の間に生まれ、早くから音楽に目覚めました。パリ音楽院で在学中から作曲家としての活動を始め、19歳でローマ賞を受賞するなど、華々しい成績を収めます。1860年代に歌劇場の仕事を始め、《美しきパースの娘》などのオペラを作曲しますが、最初はなかなか認められず、34歳のときにようやく劇付随音楽《アルルの女》が大成功を収めました。これに勇気づけられたビゼーは《カルメン》に力を注ぎますが、初演では残念ながら聴衆の理解は得られず、その3か月後に心臓発作で36年の生涯を終えてしまいました。《カルメン》はその後、ウィーンで大成功を収め、フランス・オペラ史上画期的な傑作とまで評されることになります。
没後100年! エリック・サティ(1866~1925)
ノルマンディの港町オンフルールで生まれ、少年時代はパリとオンフルールを行き来して育ちました。パリ音楽院で学びますが、教授から「才能なし」とされて除籍となってしまいます。その後モンマルトルのカフェに出入りし始め、さまざまな芸術家との交流を通して、個性的な作品を発表するようになります。教会旋法による調整の希薄さ、拍子や小節線を排したリズム、執拗な繰り返しや、“聴かれる”ことを否定する「家具の音楽」など、革新的な音楽語法は後世の音楽家たちにも多大な影響を与えました。後年はパリ近郊の村アルクイユで過ごし、1925年7月1日にアルコール乱用による肝硬変で亡くなりました。
没後50年! ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906~1975)
ショスタコーヴィチはロシアのサンクトペテルベルクで生まれ、9歳のときにピアニストの母から本格的にピアノを習い始めました。ペトログラード音楽院(現サンクトペテルブルク音楽院)に入学し、ピアノと作曲を学び、一時は経済的困難に陥りましたが、当時の楽長グラズノフの援助などによって卒業に至ります。卒業作品の交響曲第1番は、西欧各地でも演奏され、評判を呼びました。1927年には第1回ショパン国際ピアノコンクールで名誉賞を受賞し、ピアニストとしても認められます。その後、オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》の成功で、作曲家としての地位を確固たるものにし、交響曲第5番、第7番も大成功を収めました。
没後50年!ルロイ・ アンダーソン(1908~1975)
年末に街でよく耳にした「そりすべり」を作曲した、アメリカ生まれのルロイ・アンダーソン。ハーバード大学でジョルジュ・エネスクらに音楽の基礎を学ぶ傍ら、ニューイングランド音楽院にも通い、ピアノやコントラバスの研鑽も積みます。音楽の学位取得後は、大学で教えながら合唱団の指揮者や教会オルガニストなども務めますが、言語学への興味も高まり、ハーバード大学でドイツ語、スカンジナビア諸語、ノルウェー語、アイスランド語、スウェーデン語、デンマーク語など、多くの言語を学びました。1938年にボストン交響楽団のマネージャーに、ハーバード大学の学生歌のオーケストラ編曲を評価されたのをきっかけに、音楽家として生きていく決意をし、以後「タイプライター」やゴールドディスク賞を受賞した「シンコペイテッド・クロック」など、軽快で楽しい雰囲気の名曲を数多く残しました。
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