インタビュー
2026.06.06
短期連載

ピアニスト務川慧悟が語る ワインと音楽#3 音楽もワインも深めるほどに味わいが増す

ピアニストの務川慧悟さんが、ワインを知ることの奥深さ、そして音楽にも通じる点を3回にわたって語る連載。最終回は、務川さんが音楽とワインの共通点としてもっとも魅了される、長い時間をかけた熟成について掘り下げていきます。

取材・文
船越清佳
取材・文
船越清佳 ピアニスト・音楽ライター

岡山市出身。京都市立堀川音楽高校卒業後渡仏。リヨン国立高等音楽院卒。長年日本とヨーロッパで演奏活動を行ない、現在は「音楽の友」「ムジカノーヴァ」等に定期的に寄稿。多く...

音楽の友 編集部
音楽の友 編集部 月刊誌

1941年12月創刊。音楽之友社の看板雑誌「音楽の友」を毎月刊行しています。“音楽の深層を知り、音楽家の本音を聞く”がモットー。今月号のコンテンツはこちらバックナンバ...

パリの自宅で開くワインテイスティング会用に選んだワインとともに

撮影(本記事の写真すべて):船越清佳

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本質への道は、まずルールを深く学ぶこと

――音楽とワインの世界の共通点で、とくに魅了される部分は?

務川慧悟(以下M) 専門的な知識がなくても、誰もがワインを楽しむことができるのと同じように、初めてコンサートを聴きに来られた方でも、良い演奏なら作品の素晴らしさを感じていただけるのがクラシック音楽です。両方とも、表面に触れるだけで価値があるし、またカジュアルに楽しむべきだと思います。しかし、その先にはさらに深い世界が広がっていて、望めばどこまでも深く入り込むことができるという共通点もあるのです。

思考には、“広さ”と“深さ”という二つの柱があります。広さはいわば“横”、知識の量です。たとえば国名を無数に挙げることができる、など。

一方、深さは“縦”です。これはある方の発言から学んだのですが、“縦”が“横”と異なるのは「縦には重力が存在する」ということ。つまり知識の広さは学ぶ順序を問わないけれど、深めるには物が上→下という道順で落下するのと同じように、必ず順序が存在するのです。物事の理解を深めるには、順序を追いながら時間をかけて掘り下げる必要があるということです。

ワインを勉強していると、徐々にいろいろなルールがわかってきます。僕は飲んだことはありませんが、伝説的なワイン、ロマネ・コンティをワイン初心者が味わっても、美味しいと感じるでしょう。しかし、勉強することで、なおさらその偉大さが理解できるのではないでしょうか。僕も以前より、名酒といわれるワインの価値や、その値段の理由がわかるようになりました。

ルールを真剣に学ぶことの意義は、ここにあるのだと思います。ピアノの演奏も同じです。楽器の構造に関する原則、奏法のルールは、長年の勉強で体の一部となり、演奏に自然に活かされている。それをどのように応用するかは、それぞれの美学、人生経験など、いろいろなことが関係しますが、本質に近づくためには、まずルールを深く学ぶ必要があるのです。

これは音楽を聴く立場からも言えるでしょう。さまざまな演奏や作品に触れることで、だんだんと音色の基準が明らかになり、頭の中に「音色の地図」が描かれていくのではないでしょうか。グリゴリー・ソコロフの凄さは、クラシックの初心者にも伝わるはずです。しかし、いろいろなピアニストの演奏を知り、改めてソコロフを聴くと、その凄さの理由がもっとよくわかるのではないかと思うのです。

そう考えると、僕は改めて演奏家としての責任の重さを感じずにはいられません。クラシック音楽という再現芸術において、作品と聴衆をつなぐ役割を担うのが奏者だからです。たとえば、ベートーヴェンの後期のソナタを初めて聴く方々にとって、この宇宙のような世界をすぐに理解するのは簡単ではないかもしれません。でも、ベートーヴェンの偉大さは絶対的な事実です。その価値を伝えられるか、あるいは台無しにするか、それが僕の演奏にかかっているということなのですから。

パリのワインバーでくつろぐ務川さん ©船越清佳

良いワインと音楽を生み出す“良い脇役”の存在

――やはり音楽に対してつねに謙虚に、作曲家とその作品を尊重する演奏家の気持ちは、聴衆にも伝わるのだと思います。

M ワインの世界には「ワイン法」があります。どの国でも基本的な考えは同じなのですが、これは各産地の特徴を尊重するために定められているのです。ワイン製造家はその土地で収穫された葡萄を生かし、その土地の伝統的な製造方法を用い、その土地に寄り添ったワインを造る。「いかに産地の美点を引き出すか」に、製造家の理念や手腕が問われるのですね。これは作品と解釈者の関係に似ていると思うのです。

ピアノのソリストといわれる人は、その人自身がスターとして崇められる傾向があります。僕はマルタ・アルゲリッチやウラディミール・ホロヴィッツのようなピアニストにほんとうに魅了されます。彼らの演奏は真に“シューマン”、“シューベルト”でありながら、同時に“ホロヴィッツ”、“アルゲリッチ”が現れる。奇跡のような芸術です。

でも、僕は常に“良い脇役”であることが、本来の演奏家のあり方だと思っています。主役は作曲家、彼らの作品なくして、自分に価値はない。僕は作曲家の思いに肉薄し、彼らの人格に憑依できたら……といつも思っているのです。

ワインもピアニストも 熟成には長い時間がかかる

――それでは最後に。務川さんがワインに魅了される、そのいちばんの理由を教えてください。

M ワインの味が比類なく独特だと思う理由、それは“熟成”です。何十年もの年月による熟成を経たワインには、「枯れ葉」とか「雨上がりの森」などと形容されるものがありますが、その深みは僕らが日常生活で経験する味覚の理解の範疇を超えているように思います……。

テクノロジーの進んだ現代ですから、数十年分の熟成を科学的な技術で大幅に短縮することもできるような気がしますが、それは不可能なのだそうです。熟成が進むプロセスで起きている化学反応にも順序があり、それがひとつひとつ連なっていくためには、長い時間が必要だからです。すべてには順番があります。若い音楽家がいきなり巨匠の演奏を真似てもうまくいかないし、誰の心も動かせないのと同じでしょうか。

ピアニストの熟成も、長い年月と修練を要します。僕は聴衆の方々とともに自分の音楽を深め、これからも歩んでいきたいと思っています。

務川邸に置かれた蝶のオブジェ
取材・文
船越清佳
取材・文
船越清佳 ピアニスト・音楽ライター

岡山市出身。京都市立堀川音楽高校卒業後渡仏。リヨン国立高等音楽院卒。長年日本とヨーロッパで演奏活動を行ない、現在は「音楽の友」「ムジカノーヴァ」等に定期的に寄稿。多く...

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