
ピアニスト務川慧悟が語る ワインと音楽#3 音楽もワインも深めるほどに味わいが増す

ピアニストの務川慧悟さんが、ワインを知ることの奥深さ、そして音楽にも通じる点を3回にわたって語る連載。最終回は、務川さんが音楽とワインの共通点としてもっとも魅了される、長い時間をかけた熟成について掘り下げていきます。
本質への道は、まずルールを深く学ぶこと
――音楽とワインの世界の共通点で、とくに魅了される部分は?
務川慧悟(以下M) 専門的な知識がなくても、誰もがワインを楽しむことができるのと同じように、初めてコンサートを聴きに来られた方でも、良い演奏なら作品の素晴らしさを感じていただけるのがクラシック音楽です。両方とも、表面に触れるだけで価値があるし、またカジュアルに楽しむべきだと思います。しかし、その先にはさらに深い世界が広がっていて、望めばどこまでも深く入り込むことができるという共通点もあるのです。
思考には、“広さ”と“深さ”という二つの柱があります。広さはいわば“横”、知識の量です。たとえば国名を無数に挙げることができる、など。
一方、深さは“縦”です。これはある方の発言から学んだのですが、“縦”が“横”と異なるのは「縦には重力が存在する」ということ。つまり知識の広さは学ぶ順序を問わないけれど、深めるには物が上→下という道順で落下するのと同じように、必ず順序が存在するのです。物事の理解を深めるには、順序を追いながら時間をかけて掘り下げる必要があるということです。
ワインを勉強していると、徐々にいろいろなルールがわかってきます。僕は飲んだことはありませんが、伝説的なワイン、ロマネ・コンティをワイン初心者が味わっても、美味しいと感じるでしょう。しかし、勉強することで、なおさらその偉大さが理解できるのではないでしょうか。僕も以前より、名酒といわれるワインの価値や、その値段の理由がわかるようになりました。
ルールを真剣に学ぶことの意義は、ここにあるのだと思います。ピアノの演奏も同じです。楽器の構造に関する原則、奏法のルールは、長年の勉強で体の一部となり、演奏に自然に活かされている。それをどのように応用するかは、それぞれの美学、人生経験など、いろいろなことが関係しますが、本質に近づくためには、まずルールを深く学ぶ必要があるのです。
これは音楽を聴く立場からも言えるでしょう。さまざまな演奏や作品に触れることで、だんだんと音色の基準が明らかになり、頭の中に「音色の地図」が描かれていくのではないでしょうか。グリゴリー・ソコロフの凄さは、クラシックの初心者にも伝わるはずです。しかし、いろいろなピアニストの演奏を知り、改めてソコロフを聴くと、その凄さの理由がもっとよくわかるのではないかと思うのです。
そう考えると、僕は改めて演奏家としての責任の重さを感じずにはいられません。クラシック音楽という再現芸術において、作品と聴衆をつなぐ役割を担うのが奏者だからです。たとえば、ベートーヴェンの後期のソナタを初めて聴く方々にとって、この宇宙のような世界をすぐに理解するのは簡単ではないかもしれません。でも、ベートーヴェンの偉大さは絶対的な事実です。その価値を伝えられるか、あるいは台無しにするか、それが僕の演奏にかかっているということなのですから。

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