読みもの
2022.07.30
体感シェイクスピア! 第16回

『アントニーとクレオパトラ』~恋に溺れたかつての名将が向かう破滅を絵画と音楽の細部が示す

文豪シェイクスピアの作品を、原作・絵画・音楽の3つの方向から紹介する連載。
第16回は、『アントニーとクレオパトラ』をシュミットの組曲とアルマ=タデラの絵画から読み解きます。恋に溺れたアントニーはどうなる? “世界三大美女”クレオパトラを文豪と2人の芸術家はどのように描いた?

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齊藤貴子
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齊藤貴子 イギリス文学・歴史文化研究者

上智大学大学院文学研究科講師。早稲田大学および同大学エクステンションセンター講師。専門領域は近代イギリスの詩と絵画。著作にシェイクスピアのソネット(十四行詩)を取り上...

ローレンス・アルマ=タデマ《アントニーとクレオパトラの出会い》(1885, 個人蔵)

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『ジュリアス・シーザー』後日談の主役は人心掌握に長けたアントニー

恋は人を愚かにする。

誰の言葉かにわかに思い出せないけれど、シェイクスピアも「大抵の恋はただ愚かなもの(most loving mere folly)」と似たようなことを言っている(『お気に召すまま』第2幕第5場)。もっと身も蓋もない別の言いかたをすれば、ある程度バカになれないと恋はできないのだろう。この人と一緒ならもうどうなってもいいやと、どこかで一瞬バカというよりヤケになれないと……。

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だから、年輪とともに公私にわたって背負うものが多くなり、そんなにバカにもヤケにもなれなくなると、人は自然と恋愛から遠ざかる。なのに、もはや若いとは言えない年齢で危うい恋の急流に足を取られる男女は、いつの世も一定数存在するから不思議だ。

これはシェイクスピアの世界とて例外ではない。本連載初回で取り上げた『ロミオとジュリエット』のように、シェイクスピアには世間知らずの若いふたりの純で一途なラブストーリーもあれば、酸いも甘いも嚙み分けた大人どうしの恋物語もある。その代表格が『アントニーとクレオパトラ』にほかならない。

時系列から言うと、『アントニーとクレオパトラ』は前回紹介した『ジュリアス・シーザー』の完全なる後日譚。シーザー暗殺後、首謀者のひとりブルータスは、すべては大義ゆえであったと民衆を前に力説し、自身の行為の正当性ないし後継者としての正統性までも暗に主張する(『ジュリアス・シーザー』第3幕第2場)。

だが、これに「諸君は皆いちどはシーザーを愛したではないか」と、至極真っ当な正論で爽やかに異議を申し立てるのが、亡きシーザーの若き部下マーク・アントニーだ。「いったい今どんな理由があって彼の死を悼もうとしないのか」と、彼はそのまま弁舌巧みに畳み掛け、前回紹介した画家ウィリアム・ホームズ・サリバンがやはり絵にしているとおり、いったんブルータスになびきかけた人心をあっという間に掌握してしまう。

ウィリアム・ホームズ・サリヴァン《ジュリアス・シーザー第3幕第2場マークアントニーの演説》(1888年頃、ロイヤル・シェイクスピア・シアター蔵)

やがてアントニーは、シーザーの養子オクテイヴィアスともうひとりの将レピダスと共に三頭政治を開始し、全ローマを支配する執政官のひとりとなる。すなわち、彼はまごうことなき国の支柱となった……はずだった。

シーザーの元恋人クレオパトラに溺れてダメ男に

時は人を変える。少なくともそれがシェイクスピアの解釈で、シーザーの暗殺から幾歳月、今や40代となったアントニーが登場する『アントニーとクレオパトラ』では、かつて義憤に駆られ「皆いちどはシーザーを愛したではないか」と群衆に熱く訴えかけた若き勇士の面影はもうどこにもない。かわりに芝居の幕開け早々わたしたちの目に突き付けられるのは、在りし日のシーザーの想われ人であったエジプトの女王クレオパトラと、アレクサンドリアの宮殿でだらしなく乳繰り合う姿である。

——ねぇ、本当に愛しているならどれくらい愛しているか言ってみて。第1幕第1場でクレオパトラにこう尋ねられ、そんなこと言えるか、言葉にして言える程度の卑しい愛じゃないんだと、一応大人の男としての分別をみせるも、相好を崩しっぱなしのアントニー。そこに折悪しくローマからの使者が訪れる。用向きは聞くまでもない。帰国の催促だ。

実のところ、シーザー後継の座をめぐる権力闘争の妥協点に過ぎなかった三頭政治体制下にあって、アントニーは東方での勢力拡大を言い訳に、ローマ国内での面倒な政務も家庭も完全に放っぽりだしてエジプトにいた。それだけクレオパトラに溺れていたのである。 

だから彼は、クレオパトラから自分を引き離すべくやってきたローマの使者を前に、嫌悪感むき出しで憎まれ口をたたく。

Let Rome in Tiber melt, and the wide arch

Of the ranged empire fall! Here is my space. Kingdoms are clay: 

ローマなどティベレ川に飲み込まれて溶けるがいい、帝国の広大なアーチも崩れ落ちてしまえ! ここが私の居場所だ。

王国など土塊だ。

世の中には言って良いことと悪いことがあって、第三者を前にした政治家の自国に対する発言としては、これは最低の部類に入るだろう。愛するクレオパトラの手前ということもあるが、もはやここエジプトが「私の居場所」だと開き直り、ローマなど滅べばいいと軽率にも口走るアントニーが、為政者として腐りはじめているのは明らか。

かつての上官を魅了した女、彼女の前の男はあのシーザーなのだと誰もが知っているクレオパトラに、アントニーは本当にみっともないほど骨抜きにされている。きっとそれほどまでに、女王クレオパトラと彼女が惜しげもなく与え供する豪奢な生活は大層魅力的だった。何はなくともそう信じさせてくれるのが、シェイクスピアの同原作に基づくフローラン・シュミットの組曲《アントニーとクレオパトラ》である。

フローラン・シュミット:組曲《アントニーとクレオパトラ》第1番、第2番

官能的なハーモニーにむせかえるような極彩色……芸術家たちが表したクレオパトラの姿

近現代フランスを代表する作曲家シュミットが劇付随音楽として1920年に発表し、その後、全2部から成る管弦楽組曲として再編成した楽曲は、なんとも複雑で神秘的。とくにその名も「アントニーとクレオパトラ」と題された組曲第1番の第1曲と、ふたりが過ごす「女王の宮殿の夜」を表現した組曲第2番の第1曲は、妖しくも豪華絢爛たる音の饗宴といった趣だ。

こんなにも華麗かつ官能的なハーモニーの中に日々あれば、あやかされ陶然となるのはごく自然のなりゆき。そんなにアントニーひとりを責めるわけにもいかないか……と、聴いているこちらまで何だかほだされてしまう摩訶不思議さがシュミットの音楽の魅力。

フローラン・シュミット:組曲《アントニーとクレオパトラ》より「アントニーとクレオパトラ」、「女王の宮殿の夜」

そしてシュミットの楽曲同様、神秘的で燦爛たる作品世界でわたしたちを魅了し、むせかえるような極彩色でさらなる夢心地に誘うのが、19世紀イギリスの画家ローレンス・アルマ=タデマの描いた《アントニーとクレオパトラの出会い》である。

ローレンス・アルマ=タデマ《アントニーとクレオパトラの出会い》(1885年、個人蔵)

この絵に描かれているのは、シェイクスピアの原作で言えば第2幕第2場。アントニーの副官イノバーバスが、主君とクレオパトラとの出会いを回想してローマの将たちに伝えるシーンだ。

The barge she sat in, like a burnish’d throne,

Burn’d on the water; the poop was beaten gold, 

Purple the sails, and so perfum’d, that

The winds were love-sick with them;

……For her own person,

It beggar’d all description; she did lie

In her pavilion,—cloth-of-gold of tissue,—

O’er-picturing that Venus where we see

The fancy outwork nature;

彼女の船は、磨き抜かれた玉座さながら

燃えるように水に照り映え、船尾は金、

帆は紫、あたりに漂うかぐわしい香りは

そよ風さえも恋煩いするほどだった。

……彼女そのひとについては、

言葉にならない。天蓋――それも金糸の織物――の下に横たわるその姿はヴィーナスをも凌ぎ、

想像が自然を凌駕する。

「磨き抜かれた玉座さながらの」黄金の船体や「天蓋」に、「かぐわしい香り」をあたりに放つ横断幕がわりの薔薇の花輪……。実のところ、イノバーバスの回想はクレオパトラ自身については何ひとつ語っていないに等しい。この場面に可能な限り忠実に描かれたアルマ=タデマの絵画同様、原作においてイノバーバスが伝えているのは、主としてクレオパトラの船や調度品の如何。つまりは彼女の持てる富、生きる世界の煌びやかさであって、それこそがクレオパトラという女性の無視できず「言葉にならない」魅力の一端なのだと教えてくれる。

言い方を変えれば、歴史における永遠のグレーゾーンであるクレオパトラの美貌について、シェイクスピアは直接的言及を巧みに避けている。そして男だろうと女だろうと、単に容貌や性格やセックスアピールのみならず、地位や能力、権力や財産等の全属性ひっくるめて人は人に惹かれるのだという、非常にプラクティカルな恋愛観をも暗に提示しているといっていい。

絵画の細部が暗示し、音楽の不穏な響きが醸す二人の破滅

ただし、わたしたちの生きる世界と時間にはすべからく限りがあって、少なくとも人ひとりの誇る栄華など束の間のもの。実際、アルマ=タデマが描くクレオパトラの栄光に満ちた世界も、よく見ればそこかしこにすでに衰退の兆しが認められる。

たとえば、天蓋の裾部分に散らばる薔薇の花びら。あるいは、まるで肩口から獣に嚙みつかれているかのようにクレオパトラが身に纏っている猛禽の毛皮。そして何より、彼女自身の何ともアンニュイで自堕落なポーズ。これら優雅なる倦怠の先に待つものが、破滅でなくて果たして何だろう。

事実、彼女は滅ぶ。画中のアントニーと共に。そして共に滅ぶことが避けられないほど、ふたりの「出会い」は初めから決定的だった。

天蓋の裾部分に散らばる薔薇の花びら
猛禽の毛皮

絵の中で、開いた天蓋の向こう側からクレオパトラの姿をひと目見ようと、小舟の上で思わず立ち上がって身を乗り出し、そのまま固まってしまっているアントニー。これはもちろん、一義的には伝説の女王との宿命的邂逅を示すもの。すなわち、ほかにどんな女性が出現しようと(もともとアントニーには正妻がいたし、正妻の死後は政敵オクテイヴィアヌスの姉と再婚する)、最終的にクレオパトラがアントニーの心を勝ち得る結末を物語るものではある。

しかし、イギリス美術史的観点からもうひとつ付言するなら、これは大変な文学通かつ歴史通だった画家アルマ=タデマならではの心憎い演出。不安定な小舟の上で迂闊に動くアントニーは、彼が本質的には「陸」の将であり、ひいては決して知将ではなかった史実を露呈しているようなものだ。

クレオパトラの姿をひと目見ようとするアントニー。表情にも注目!

シェイクスピアの芝居の中でも、オクテイヴィアスとついに雌雄を決するにあたり、アントニーは周囲が必死に止めるのもきかず、得意の陸戦ではなく敢えて不得手な海戦を選ぶ。この場面を表現したシュミットの組曲第1番の第3曲、「アクティウムの海戦」の旋律が湛える不穏な興奮と緊張感そのままに、結果的にアントニーは敗走に追い込まれて自死を選び、クレオパトラも獣ならぬ蛇に我が身を噛ませて自害する。要は完全なる敗北。史実としてのアクティウムの海戦の解釈には諸説あるものの、シェイクスピアの世界においては、決戦の場に陸ではなく海を選んだことがそもそもの敗因であることは間違いない。

フローラン・シュミット:組曲《アントニーとクレオパトラ》より「アクティウムの海戦」

アントニーの愚かな判断は、海戦術に長けた政敵に対する虚勢であったか。それとも、自分は敵より多くの船を持つとうそぶくクレオパトラの手前、もはや引っ込めることのできない男の見栄であったか。

いずれにしても、やはり恋は人を愚かにする。いい大人なのに、女のために無い袖振って、取り返しがつかなくなるほどに。そしてそんな男と共に、自ら滅んでゆけるほどに。

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齊藤貴子 イギリス文学・歴史文化研究者

上智大学大学院文学研究科講師。早稲田大学および同大学エクステンションセンター講師。専門領域は近代イギリスの詩と絵画。著作にシェイクスピアのソネット(十四行詩)を取り上...

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