
ラヴェルの人生、10のターニングポイント【前編】家族、ローマ賞、ドビュッシー

緻密で洗練された音楽を書いたモーリス・ラヴェル。しかし、その人生には挫折や論争、国家との距離感など、意外なほど人間臭いドラマがありました。
3月21日に刊行されたロジャー・ニコルズ著『モーリス・ラヴェル 海賊と時計職人』をもとに、訳者の神保夏子さん、平野貴俊さんがONTOMO Radioで語った内容を再構成。ラヴェルの人生における10のターニングポイントを通して、その作品世界の背景をひもときます。前編では、幼少期からレジオン・ドヌール拒否事件までを取り上げます。

東京・神楽坂にある音楽之友社を拠点に、Webマガジン「ONTOMO」の企画・取材・編集をしています。「音楽っていいなぁ、を毎日に。」を掲げ、やさしく・ふかく・おもしろ...
ターニングポイント1:幼いラヴェルが出会った音楽
——まずはラヴェルの原点とも言える幼少期のお話から伺いたいと思います。お母さんはスペイン系、お父さんはスイスで時計などを作っていたそうですね。ユニークな家庭環境ですが、のちのラヴェルらしさは幼い頃からすでに見えていたんでしょうか?
平野 ラヴェルが生まれたのは、スペイン・バスク地方の港町シブールです。ただ、幼い頃には家族とともにパリへ移り住んでいます。住んだのは9区の、芸術家たちが集まる洒落たエリア。刺激的な環境の中で育ちながら、家庭では母親からバスク語を聞き、スペイン語の子守歌に囲まれていたそうです。
少年時代の写真でも、ロシア製の毛皮の帽子をかぶっていたり、周囲の少年たちと比べても際立っておしゃれでした。幼い頃から独特の美意識を持っていたことがうかがえます。
また、ラヴェルは母親の愛情を強く受けて育ったとも言われています。パリでは、のちにラヴェル作品の名手となるピアニスト、リカルド・ビニェスと出会います。二人が知り合ったのは、今でいう中学生くらいの頃。ほとんど毎日のように一緒にピアノを弾き、さまざまな場所へ出かけるなど、濃密な友情を育んでいきました。そうした友人関係から受けた刺激も、ラヴェルの感性を形づくる大きな要素だったと思います。

——ビニェスがラヴェルのことを、フランス語風の「モーリス」ではなく、バスク語風に「マウリス」と呼んでいたというのも印象的でした。
神保 興味深いのは、スペイン語のタイトルを持つ作品は実はほとんどなく、《道化師の朝の歌》だけなんです。それ以外は、基本的にフランス語のタイトルです。
——フランス人でありながら、強くスペイン文化の影響を受けていた。その二重性は、ラヴェルという作曲家のアイデンティティを語るうえで、とても重要なのですね。

京都府出身。東京藝術大学音楽学部器楽科および楽理科を経て、同大学院音楽研究科修士課程および博士後期課程修了。博士(音楽学)。学内にて大学院アカンサス音楽賞受賞。日本学術振興会特別研究員、立教大学・国立音楽大学・桐朋学園大学ほか非常勤講師を経て、現在、お茶の水女子大学基幹研究院人文科学系助教。専門分野は近代フランス音楽史、演奏文化史。著書に『マルグリット・ロン――近代フランス音楽を創ったピアニスト』(アルテスパブリッシング)、共編著書に『コンクール文化論――競技としての芸術・表現活動を問う』(青弓社)、共訳書にカンタン・メイヤスー『亡霊のジレンマ――思弁的唯物論の展開』(青土社)、ジョルジュ・サンド『マヨルカ島の冬』(Celda de Frédéric Chopin y George Sand)など。〔標準版ピアノ楽譜〕『ラヴェル ピアノ作品集1』(音楽之友社)解説担当。NHK交響楽団等の曲目解説の執筆も行なう。
右:平野貴俊 (ひらの・たかとし)
1987年東京都出身。東京藝術大学音楽学部楽理科を経て、同大学院音楽研究科博士後期課程修了。アカンサス賞、大学院アカンサス賞受賞。在学中、フランス政府給費留学生として国立社会科学高等研究院(EHESS)に留学、フランス国営放送の音楽活動を研究。研究のほか、20世紀以降のフランス音楽を主領域として、NHK交響楽団、サントリーホールの主催公演等の曲目解説の執筆や翻訳等を行う。校訂版楽譜に『リリ・ブーランジェ ピアノ曲集』(カワイ出版)、〔標準版ピアノ楽譜〕『ラヴェル ピアノ作品集1』(音楽之友社、校訂協力)、共著書に『上海フランス租界への招待――日仏中三か国の文化交流』(勉誠社)、訳書にジャン・ボワヴァン『オリヴィエ・メシアンの教室』、クリスチャン・メルラン『ピエール・ブーレーズ』(刊行予定)(以上、アルテスパブリッシング)。東京藝術大学大学院、明治学院大学非常勤講師。日仏現代音楽協会理事。
ターニングポイント2:“ラヴェルらしさ”はこうして生まれた! 初のヒット作《亡き王女のためのパヴァーヌ》と《水の戯れ》
——ラヴェルが注目されるきっかけになったのが、《亡き王女のためのパヴァーヌ》と《水の戯れ》ですが、この頃、ラヴェル自身は自分の作風をどの程度意識していたのでしょうか。また、《水の戯れ》をどのように演奏すべきか尋ねられた際、「リストのように」と答えた、というエピソードもあります。初めてのヒット作を世に送り出した当時、ラヴェルは自作をどう捉えていたのでしょうか。
平野 《亡き王女のためのパヴァーヌ》も《水の戯れ》も、1900年前後に書かれた作品です。《亡き王女のためのパヴァーヌ》は、当時パリで華やかなサロンを主宰していたエドモン・ド・ポリニャック夫人に献呈されています。
ラヴェルはフォーレに作曲を学んでいましたが、その縁もあって、こうした上流サロンに出入りするようになった。そこで、「将来を期待される若い作曲家」として注目されていたんです。
おそらく本人にも、「ここから自分の音楽を打ち立てていきたい」という強い意識があったはずです。まさに、“これから活躍してやるぞ”という意気込みがあった時期だったのではないでしょうか。
《亡き王女のためのパヴァーヌ》、《水の戯れ》
神保 独自性という意味では、《水の戯れ》のほうが、より強く意識された作品でした。
平野 《水の戯れ》について、ラヴェル自身は当初、出版をためらっていたとも言われています。ただ後年になって、「ドビュッシー以前に、自分が新しいピアノ書法を革新した最初の作品だった」と語っているんです。
そういう意味では、《水の戯れ》を、自身のスタイルを確立した重要作として強く意識していたと言えると思います。
——この本で面白かったのは、ラヴェルがパリ音楽院時代に、どんな作品を弾いていたのかが具体的に描かれているところでした。たとえばシューマンの《幻想曲》を得意としていたことなど、ラヴェルがピアニストとしてどういう音楽を吸収していたのかがよくわかるんですよね。リストもかなり意識していたんでしょうか。
神保 得意だったかどうかは別として、リスト的なヴィルトゥオジティ(超絶技巧)の感覚は、かなり意識していたと思います。実際、後年の作品でも、リストを具体的に引き合いに出す発言があるんです。たとえば「ピアノ協奏曲 ト長調」では、再現部に入る前に「ここはリストの《超絶技巧練習曲》みたいに」と語っていた記録もあります。
それに、《水の戯れ》自体、おそらくリストの《エステ荘の噴水》を意識している部分があると思うんですね。
当時のパリ音楽院では、ショパンやリストといったロマン派のレパートリーを徹底的に学びます。そこで共有されていた奏法や音楽観があって、その土台の上で、「リストのように」という言葉も出てきているんだと思います。
ピアノでは挫折も経験しましたが、それを糧に、作曲家として再出発していった時期だったと思います。
——失敗を糧にして、自分のスタイルをつくり上げていく。人間ラヴェルですね。

ターニングポイント3:ドビュッシーとの友情と緊張
——ラヴェルを語るうえで、やはりドビュッシーとの関係は外せませんね。年齢はドビュッシーの方が13歳ほど上ですが、ほぼ同時代を生きた作曲家として、二人はしばしば並べて語られます。
若い頃はかなり親しかった一方で、「どちらが先にその作風を始めたのか」という論争にも巻き込まれていく。本人たちの意思とは別のところで、“比較され続ける関係”でもありました。実際、この二人はどんな距離感だったのでしょうか。
平野 非常に複雑な関係だったと思います。友人でもあり、ライバルでもあり、お互いを強く意識し合う存在だった。周囲もその関係性に注目していました。
象徴的なエピソードとして、ラヴェルの《耳で聞く風景》があります。ドビュッシーはこの作品を実際に聴いていて、ラヴェルに「楽譜を貸してほしい」と頼んだんですね。
その後、ドビュッシーは「グラナダの夕べ」を書きますが、ラヴェルはそこに、《耳で聴く風景》の中の「ハバネラ」と似た書法を感じ取ったようです。
そのため、後年ラヴェルが「ハバネラ」をオーケストラ編曲して《スペイン狂詩曲》に取り入れた際、楽譜にわざわざ「1895年作曲」と明記しているんです。
ラヴェル:《耳で聞く風景》「ハバネラ」、ドビュッシー:《版画》より「グラナダの夕べ」
——まるで、“こちらのほうが先でした”という当てつけのようですね。
平野 なぜそこだけ作曲年が強調されているのか、と考えると、やはり意識していた部分はあったのだと思います。
さらに、ドビュッシーの私生活も関係してきます。当時、ドビュッシーは女性関係のスキャンダルで世間を騒がせていました。ラヴェルは「それはさすがに問題ではないか」と批判的な立場を取る友人側についた。そうした細かな出来事が積み重なって、二人の関係は少しずつ微妙になっていったようです。
ただ、それでも互いへの敬意は非常に強かったと思います。ライバルというより、「超えなければならない存在」として、お互いを見ていたのではないでしょうか。
——作品上の影響関係だけでなく、私生活のスキャンダルまで絡んでくる。かなり人間臭い関係ですね。
神保 そもそもの前提として、ラヴェルは13歳年下です。当時のドビュッシーはすでに《ペレアスとメリザンド》を書き上げ、音楽界で確固たる地位を築いていた。
だからラヴェルは、何を書いても「ドビュッシーに似ている」と比較されてしまう立場だったわけですよね。少しでも共通点があると、「模倣している」と見なされてしまう。これはかなりストレスだったと思います。
ターニングポイント4:ローマ賞事件はラヴェルをどう変えた?
——次に触れたいのが、「ローマ賞事件」です。ラヴェルの人生を語るうえで、避けては通れない出来事ですよね。まず前提として、“ローマ賞”とはどんな賞だったのでしょうか。
神保 ローマ賞は、19世紀から続いたフランスの国家的な芸術賞で、若い芸術家にとって最大級の登竜門でした。1968年の学生運動の時代に廃止されるまで、非常に長く続いた制度です。
音楽部門は作曲家限定で、当時パリ音楽院で作曲を学ぶ学生にとっては、「当然受けるもの」という位置づけでした。ドビュッシーをはじめ、多くの著名なフランス作曲家が受賞しています。
——ラヴェルは若い頃、何度もローマ賞に挑戦しましたが、結局一度も大賞を受賞できなかった。ピアノ科での挫折に続いて、今度は作曲でも結果を出せなかったわけです。そして最後には、いわゆる「ラヴェル事件」が起こります。結局、何回挑戦したんでしたっけ?
神保 全部で5回です。1900年から1905年までの間、25歳から30歳のときに、1年だけ休んで、ほぼ毎年受験している。しかも、“過去問対策” など、かなり真面目に準備していたんです。実際、2回目の挑戦では2位を受賞しました。それで「次はいけるかもしれない」と思って受け続けたら、最後はまさかの予選落ち。
——その時点でラヴェルは、すでに《亡き王女のためのパヴァーヌ》や《水の戯れ》を書いていて、作曲家として注目を集め始めていたため、騒動に発展したわけですね。
神保 しかも審査員の弟子たちばかりが本選に残っていたこともあって、「これはおかしい」という空気が一気に広がった。
重要なのは、「それゆえにラヴェルがむしろ評価された」ことなんです。“ラヴェルに実力がなかった”という話ではなく、「実力を測る制度そのものがおかしいのではないか」という議論に発展していきました。
——つまり、ラヴェルは落選したことで、逆に時代の側から支持される存在になった。
神保 当時のフランス音楽界では、「パリ音楽院を出て、ローマ賞を取る」というのが、いわばエリートコースでした。そこから教授や音楽界の要職へ進む人も多かった。
ラヴェルは、そのルートから外れてしまった。でも世間は、「あれだけの作品を書いている人が落ちるのはおかしい」と感じたんです。結果的に、この事件はパリ音楽院や審査制度そのものへの批判につながっていきました。
——ある意味、音楽界の価値観そのものを揺さぶった事件だったんですね。
神保 ただ、予選落ちしたときのラヴェルの答案にも、問題がありました。当時の課題には、フーガや合唱曲のような、非常にアカデミックな形式が求められていました。当然、和声にも厳格なルールがある。でもラヴェルは、そこに“教科書的には外れた響き”を書いているんです。たとえば、本来ならきれいに終止すべきところで、少し違う和音を置いていたりする。
——最後の挑戦では挑発的で強気なことをしたわけですね。もちろん、ラヴェルは徹底的にアカデミックな勉強をしてきたから、 “知らずに間違えた”わけではない。
平野 この時期は家庭の事情も関係しています。ラヴェルの父は発明家で、自動車の開発にも関わっていました。実際にその車が公開走行をしたのですが、死亡事故が起きてしまった。裁判沙汰にもなって、家族にとって非常に大きな出来事だったんです。
ラヴェルが最後のローマ賞に挑戦したのは、その直後でした。この本では、「そんな状況で、母を置いて副賞のローマ留学へ行くことに、無意識の抵抗があったのではないか」という解釈も紹介されています。

ターニングポイント5:国家に「ノン」を突きつけた作曲家~レジオン・ドヌール拒否事件
——ラヴェルは後年、フランス最高勲章であるレジオン・ドヌール勲章を辞退しています。今なお続くフランス最高位の勲章ですね。これもまた、当時かなり話題になった“事件”だったと思います。ラヴェルにとって、この辞退にはどんな意味があったのでしょうか。
神保 これについては諸説あります。この本の中でも、いくつかの可能性が紹介されています。
まずひとつは、レジオン・ドヌールが“国家から与えられる勲章”だったということです。ラヴェルには、ローマ賞のことを根に持っていて、「あのときは認めなかったくせに、今さら国家が評価するのか」という感情が、どこかに残っていたのではないか、という見方があります。
あとは、第一次世界大戦期の出来事も関係していると言われています。ラヴェルは従軍しますが、その情報を政府関係者が母親に早く伝えてしまった。それによって母親の不安が強まり、結果として彼女の死期を早めたのではないか……そうラヴェルが恨んでいた、という説もあるんです。
ただ、一番現実的な説としては、「単純に返事を放置していた」という話もあります。1920年1月、官報のような公的な名簿で、自分がレジオン・ドヌールにノミネートされていることを知ったらしいんですが、その前に実は「受けますか?」という打診の手紙が届いていた。それに返事をしなければいけなかったのを、忙しくて放置していたらしいんです。
実はラヴェルは、その10年ほど前からすでに「レジオン・ドヌールのようなものはいらない」と周囲に語っていたらしいので、いろいろな感情が重なっていたと思います。彼は政治的には左派的な考えを持っていたことで知られているし、「国家から勲章を受け取れば、その国家を自由に批判できなくなる」という感覚もあったのではないでしょうか。
——たしかに、ラヴェルって、あまり“政治的な人”というイメージでは聴かれていないですよね。でも、こういう話を聞くと、意外なくらいロックだなと思います(笑)。しかも、フランスの勲章は断るのに、外国からの称号は割と受け取っているんですよね。
神保 オックスフォード大学の名誉博士号など、海外からの顕彰は喜んで受けている。
おそらく、自国から「国民」として認められることと、海外から「作曲家」として認められることは、ラヴェルの中で意味が違っていたんだと思います。彼にはどこか、「自分はフランスでは正当に評価されていない」という感覚があったのではないでしょうか。
後年、海外ツアーで熱狂的な歓迎を受けた際にも、「こんな歓迎はフランスでは絶対にあり得ない」と語っていたそうです。

——ちょっと寂しいですね。でも、その反骨精神が、逆に「もっとやってやろう」というエネルギーにもなっていたのかもしれない。
平野 実はフランスの作曲家には、国家と少し距離を取りたがる人が少なくないんです。たとえばメシアンやブーレーズもそうですが、「国家機関」としてのパリ音楽院に対して、どこか複雑な感情を持っている。
もちろん、フォーレのように音楽院長を務めた偉大な作曲家もいます。ただ、ローマ賞を取り、音楽院の要職に就いたからといって、必ずしも“音楽史に残る作曲家”になるわけではない。つまり、「制度の中で認められること」と、「芸術家として成功すること」は、必ずしも一致しないんです。ラヴェルも、そしてのちのブーレーズも、そうした国家的権威とは距離を置こうとした作曲家ならではの反骨精神があったのだと思います。
——そういう背景を知ってから聴くと、ラヴェルの音楽がまた違って聞こえてきますね。
後編は6月3日(水)公開予定!
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