
ラヴェルの人生、10のターニングポイント【後編】戦争、母の死、トスカニーニ事件

緻密で洗練された音楽を書いたモーリス・ラヴェル。しかし、その人生には挫折や論争、国家との距離感など、意外なほど人間らしいドラマがありました。
3月21日に刊行されたロジャー・ニコルズ著『モーリス・ラヴェル 海賊と時計職人』をもとに、訳者の神保夏子さん、平野貴俊さんがONTOMO Radioで語った内容を再構成。ラヴェルの人生における10のターニングポイントを通して、その作品世界の背景をひもときます。後編では、戦争や母の死の先に見えた「新しいラヴェル」について詳しく紹介します。

東京・神楽坂にある音楽之友社を拠点に、Webマガジン「ONTOMO」の企画・取材・編集をしています。「音楽っていいなぁ、を毎日に。」を掲げ、やさしく・ふかく・おもしろ...
ターニングポイント6:第一次世界大戦での従軍
——ラヴェルは1914年に戦争が始まると、自ら強く従軍を希望しました。しかし体重不足を理由にすぐには入隊できず、最終的には軍用トラックの運転手として戦地へ向かいます。この戦争体験は、ラヴェルの音楽にどのような影響を与えたのでしょうか。
平野 戦地での経験については、この本でも詳しく描かれています。たとえば、何日もトラックで走り続けた末に車両が故障し、“ロビンソン・クルーソーのような生活”を10日間送ったと、手紙に書き残しているんです。
それまでの生活とはまったく異なる極限状態で、精神的にもかなり過酷だったのではないかと思います。不眠症にも悩まされていたようです。一方で、創作意欲そのものは衰えず、頭の中には多くのアイデアが渦巻いていたことも語っています。
影響を受けた作品としてよく挙げられるのは《クープランの墓》です。このピアノ組曲の各楽章は、第一次世界大戦で亡くなった友人たちに捧げられています。たとえば「リゴードン」が献呈されたピエール&パスカル・ゴダン兄弟は、戦地に到着したその日に戦死してしまったとも言われています。
ラヴェル:《クープランの墓》

平野 ラヴェルにとって、《クープランの墓》は単なる追悼作品というだけではなく、戦争体験をなんとか自分の中で消化しようとする試みでもあったのではないでしょうか。
また、1918年に書かれた《口絵》も非常に興味深い作品です。この年、ラヴェルはほとんど作品を書いておらず、《道化師の朝の歌》のオーケストレーション以外、着手・
ラヴェル:《口絵》
神保 《口絵》は非常に珍しい“5手ピアノ”という編成で、ラヴェル作品の中でもかなり特殊な存在です。もともとは、自動演奏ピアノのために書かれたのではないか、という説も本書では紹介されています。演奏機会もそれほど多くない作品ですよね。

京都府出身。東京藝術大学音楽学部器楽科および楽理科を経て、同大学院音楽研究科修士課程および博士後期課程修了。博士(音楽学)。学内にて大学院アカンサス音楽賞受賞。日本学術振興会特別研究員、立教大学・国立音楽大学・桐朋学園大学ほか非常勤講師を経て、現在、お茶の水女子大学基幹研究院人文科学系助教。専門分野は近代フランス音楽史、演奏文化史。著書に『マルグリット・ロン――近代フランス音楽を創ったピアニスト』(アルテスパブリッシング)、共編著書に『コンクール文化論――競技としての芸術・表現活動を問う』(青弓社)、共訳書にカンタン・メイヤスー『亡霊のジレンマ――思弁的唯物論の展開』(青土社)、ジョルジュ・サンド『マヨルカ島の冬』(Celda de Frédéric Chopin y George Sand)など。〔標準版ピアノ楽譜〕『ラヴェル ピアノ作品集1』(音楽之友社)解説担当。NHK交響楽団等の曲目解説の執筆も行なう。
右:平野貴俊 (ひらの・たかとし)
1987年東京都出身。東京藝術大学音楽学部楽理科を経て、同大学院音楽研究科博士後期課程修了。アカンサス賞、大学院アカンサス賞受賞。在学中、フランス政府給費留学生として国立社会科学高等研究院(EHESS)に留学、フランス国営放送の音楽活動を研究。研究のほか、20世紀以降のフランス音楽を主領域として、NHK交響楽団、サントリーホールの主催公演等の曲目解説の執筆や翻訳等を行う。校訂版楽譜に『リリ・ブーランジェ ピアノ曲集』(カワイ出版)、〔標準版ピアノ楽譜〕『ラヴェル ピアノ作品集1』(音楽之友社、校訂協力)、共著書に『上海フランス租界への招待――日仏中三か国の文化交流』(勉誠社)、訳書にジャン・ボワヴァン『オリヴィエ・メシアンの教室』、クリスチャン・メルラン『ピエール・ブーレーズ』(刊行予定)(以上、アルテスパブリッシング)。東京藝術大学大学院、明治学院大学非常勤講師。日仏現代音楽協会理事。
ターニングポイント7:母の死
——悲しい出来事が続きます。1917年、ラヴェルが深く愛していた母親が亡くなります。本の中でも、そのときのラヴェルの様子がかなり詳しく描かれていますね。
神保 お葬式では立ち上がれないほどだったそうですね。
——作曲も手につかなくなってしまったそうですが、その後の創作活動にどのような影響を与えたのでしょうか。
平野 戦争と母親の死は、時期的にも重なる出来事なんです。ラヴェルは従軍していたことを母親には知らせていませんでした。ただ、最終的には周囲から伝わってしまう。さらに、ラヴェルは戦地で体調を崩し、一度パリへ戻ることになります。そこで母親と再会するのですが、そのわずか2か月後に彼女は亡くなってしまいました。
つまり、母親と過ごせる最後の約9か月間を、十分に一緒に過ごせなかった。そのことが、ラヴェルにとって大きな心残りになっていたのではないかと思います。
明確に「母親の死」と結びつけられる作品はありませんが(
神保 戦後になると、作風も少し変わっていきますよね。ピアノ曲をあまり書かなくなるなど、「新しいラヴェル」が現れるような感覚があります。それが母親の死によるものなのか、戦争の影響なのか、あるいは時代そのものの変化なのか、はっきり切り分けることは難しい。

——1917年前後にラヴェルの人生であまりにも多くの出来事が起こったわけですね。必ずしも悪い意味だけではなく、それまでとは違う作品世界へ向かう契機にもなっていったのかもしれません。
この本を読んで印象的だったのは、お母さん自身の背景でした。ラヴェルの母はスペイン系ですが、異国の地で、しかもパリという大都会で暮らす女性として、きっと心細さもあったと思います。
神保 ニコルズは、階級の違いについても書いています。父は技術者で知的階級に属していましたが、母は漁村の出身だった。そうした家族背景も含めて、「母とはどんな存在だったのか」をかなり掘り下げています。
翻訳で特に苦労したのは、母親からラヴェルへ送られた手紙でした。綴りの間違いが多く、その“たどたどしさ”を日本語でどう表現するか、かなり悩んだんです。
——そこ、すごく印象に残りました。
神保 お母さんはフランス語を完全には身につけられなかったという話が出てきます。ラヴェルはそれに対して、少し生意気というか反抗的というか、甘えたような書き方をしている手紙もあるんですよね。他人には見せないような素顔が垣間見える。
——人間ラヴェルだなと思いました。友人たちの前で見せる洗練された“ダンディなラヴェル”ではなく、母親にだけ見せる息子としての顔。ちなみに、ラヴェルはかなり長い間、母親と同居していたんですよね。
神保 40歳前後まで母親や弟と実家で暮らしていました。
ターニングポイント8:ラヴェル、家を買う
——1921年、ラヴェルはパリ郊外のモンフォール=ラモリに家を購入し、本格的な一人暮らしを始めます。現在は博物館として残っている有名な家ですね。
ここで《ボレロ》をはじめ、多くの名作が生まれていくわけですが、この本では、引っ越しが大変だったというエピソードもかなり印象的でした。特に、雇っていたチェコ人の家政婦が突然いなくなって、帳簿や私物まで持ち去ってしまったとか……。
神保 そうなんです。ある日突然いなくなってしまって(笑)。帳簿だけでなく、傘まで持っていってしまったらしいんですよね。どうやら最初の家政婦選びは、少し失敗だったようです。

——この本では、ギャラや生活費の話など、お金に関する描写もかなりリアルで面白かったです。実際、ラヴェルはかなり稼いでいたんでしょうか。
神保 他の作曲家伝記と比べると「お金に困った話」が出てこないんです。たとえばフォーレだと、若い頃は生活のために仕事を掛け持ちして苦労していた話が出てきますし、ドビュッシーはかなり浪費家だったというエピソードも多い。
でもラヴェルは、そこまで裕福な家の出身ではないにもかかわらず、お金で深刻に困窮した様子があまり見えないんですね。服装にも凝っていたし、家にも相当お金をかけていますが、「生活が立ち行かない」という感じではない。
平野 困っていても、それを表に出さなかったのかもしれませんね。
——たしかに、ラヴェルにはかなり秘密主義的なところがありますね。でもモンフォール=ラモリの家には、ラヴェルの“好きなもの”がぎっしり詰まっていますよね。
神保 そうですね。独身だったことも大きかったと思います。家族を養う必要がなく、自分のためだけにお金を使えた。だから、自分の趣味を徹底的に詰め込んだ“城”のような家を作っていくんです。
庭にも凝っているし、各国のおもちゃやオルゴールを集めたり、浮世絵を飾ったり。しかも、偽物のルノワールをわざと飾って、「実はこれ偽物なんです」と来客に種明かしして楽しんでいた、なんてエピソードもあります(笑)。

——家の写真を見ると、本当に「大人の秘密基地」みたいですよね。
神保 隠し部屋のような空間もあったらしいですし、ダンディなのでバスルームまでかなり凝っていたそうです。
ターニングポイント9:《ボレロ》のテンポで、指揮者トスカニーニと衝突
——誰もが一度は耳にしたことがあるであろうラヴェルの代表作《ボレロ》。その演奏解釈をめぐって、イタリアの名指揮者トスカニーニと衝突したエピソードは、音楽史の中でもよく知られています。
神保 問題になったのは、「テンポが速すぎる」という点でした。しかしニコルズによれば、それだけではなく、トスカニーニはテンポを揺らしながら演奏しており、ラヴェルの美学に反していたのです。
《ボレロ》は、小太鼓の一定のリズムの上に、同じ旋律が楽器を変えながら延々と現れる作品です。その機械的ともいえる持続感こそが本質なのに、途中でテンポが揺れることで音楽が“ぎくしゃく”してしまう。ラヴェルにとって、それは作品そのものを変えてしまう行為だったのでしょう。
ラヴェル:《ボレロ》
神保 一方のトスカニーニは、「このテンポこそが作品を救う唯一の方法だ」と主張したとも伝えられています。ここには単なる解釈の違いだけでなく、「作曲家 vs 演奏家」という大きなテーマも見えてきます。
実際、ラヴェルは演奏家との解釈の衝突をたびたび経験していました。たとえば「左手のためのピアノ協奏曲」では、依頼者でもあったピアニスト、ヴィトゲンシュタインが「演奏家は奴隷ではない」と言ったのに対し、ラヴェルは「奴隷です」と返した、という有名な逸話も残っています。
さらに、長年の親友であり、多くのピアノ曲を初演したリカルド・ビニェスとも、《夜のガスパール》の解釈をめぐって意見が対立しました。特に第2曲「絞首台」では、単調な鐘の音が最後まで鳴り続ける不気味さが作品の本質ですが、ビニェスは演奏効果を高めようとしたのか、
——今では「作曲家の書いた通りに演奏する」という考え方は比較的一般的ですが、当時はまだ演奏家の裁量が大きい時代だったのでしょうか。
神保 移行期だったと思います。ラヴェルやストラヴィンスキーのような作曲家たちは、「作曲家の権威」を強く打ち出した世代でもあったのです。
——とにかくラヴェルは書いてある通りにしてほしかった、と。
神保 あと書いていないところでリタルダンドしないでください、と。してほしいところには書いてあるから、という感じでした。
——ラヴェルの楽譜には、細かな指示が驚くほど書き込まれていますよね。
神保 たとえば「Sans ralentir(遅くせずに)」といった指示が頻繁に現れ、演奏家たちの間では半ばネタになっていたほどだったそうです。若いピアニストがラヴェルのレッスンを受けた際、「つまり、ここも“遅くしないで”ですよね?」と先回りして言った、という逸話まで残っています。
ターニングポイント10:2度の国外ツアー
——最後のトピックは1928年の北米ツアーについてです。50代前半、晩年の大きな転機とも言える時期ですね。ガーシュウィンとの出会いやジャズとの接触など、新しい世界から大きな刺激を受けた旅としても知られています。
一方で、このツアーでは、ラヴェルの意外な一面もたくさん見えてきます。たとえば、「20着のパジャマと57本のイブニングタイを持参した」というエピソードから、身なりへのこだわりが徹底していたことがうかがえます。
神保 日本の黒地に金刺繍の入ったガウンを持っていたという話もありますし、前編でも少し触れたオックスフォード大学で名誉学位を授与された際には、服装が非常に奇抜で、周囲の教授たちを驚かせたとも言われています。そのときにレンタルしたピンク色の服を気に入って、「本当は持って帰りたかった」と語っていたそうです。
さらに、「化粧をしていたのでは?」という噂までありました。おそらく事実ではないと思われますが、そう思われるくらい、身なりに強いこだわりを持っていたのでしょう。
——グスタフ・マーラーの妻アルマが、ラヴェルがウィーンを訪れた際の回想の中で、「ラヴェルは化粧をしていた」と書いています。ただ、それに対してラヴェルの弟子たちは反論していて、それだけ洗練された外見だった、ということですよね。日本のガウンやピンクの服は、当時のフランスの流行というわけではなく、ラヴェルの趣味ですよね?
神保 日本趣味のガウンは、ジャポニスムの流れの中で、西洋人が着物を取り入れる感覚に近かったのかもしれません。とにかく、非常におしゃれな人物だったことは間違いありません。

——そして、1932年のヨーロッパツアーに同行したピアニスト、マルグリット・ロンの証言も印象的です。
神保 このツアーは、「ピアノ協奏曲 ト長調」をヨーロッパ各地で披露するための演奏旅行でした。ラヴェルは指揮者として舞台に立ち、マルグリット・ロンがソリストを務めました。
ラヴェル指揮による「ピアノ協奏曲 ト長調」
神保 そこでロンが語っているのが、ラヴェルの“もの忘れ”です。列車のチケットをなくす、手紙をポケットに入れたまま忘れる。しかも、自分宛だけでなく、ロン宛の手紙までまとめてしまい込んでしまう。
一番ひどいのが、ルーマニア国王からの昼食の招待を忘れた、というエピソードです。ホテルに「今日はお約束の日ですが……」と国王側から電話がかかってきて、そこで初めて思い出したという話ですね。その後には首相との晩餐も忘れていて、王様は許してくれたけれど、首相は許してくれなかったんだそうです。また、「ステージ用のエナメル靴を毎回忘れる」という話もあります。
ただ、この“おっちょこちょい”エピソードは、単なる微笑ましい話では終わらない可能性があります。というのも、これは後年ラヴェルを襲う脳の病の前兆だった可能性が高いからです。
——1930年代からこういうことが増えていったのですか?
神保 不眠症気味でかなりの夜型生活を送っていた人でもありましたが、それにしても、徐々に違和感のある出来事が増えていきます。1920年代末からもの忘れが増えていきますが、その頃には、まだ「最近もの忘れが増えちゃってね」と冗談めかして話せる程度だったようです。
1933年頃になると、かなり深刻な症状が現れ始めますが、
——「ラヴェルの可愛いところだな」と思って読んでいたエピソードが、あとから振り返ると、少し違った意味を持って見えてくるところもありますね。晩年のラヴェルについて、ほかに印象的なことはありますか?
平野 ラヴェルは晩年まで、新しいテクノロジーへの関心を失わなかった人でした。映画も好きでしたし、特にラジオには大きな可能性を感じていたようです。演奏会場だけでなく、電波を通して、もっと多くの人に音楽を届けられる。その新しい時代の感覚に、強く惹かれていたんですね。晩年になってもなお、新しいテクノロジーに強い関心を持ち続けていたというのは、とても興味深いエピソードですよね。
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