ヴァイオリニストを目指した書家、比田井南谷のアヴァンギャルド
日曜ヴァイオリニストで、多摩美術大学教授を務めるラクガキストの小川敦生さんが、美術と音楽について思いを巡らし、“ラクガキ”に帰結する連載。第28回は神楽坂の現代美術ギャラリー「√K Contemporary(ルートKコンテンポラリー)」で開かれている、「線のカタチ-Linework-」という展覧会。ヴァイオリニストから現代書家へ転身した比田井南谷と、その書作品に想を得た企画に出展したアーティストたちの作品から、小川さんはどんな音楽を感じ取ったのでしょうか。
1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...
ヴァイオリニストから書家へ? 「引いて」描いた作品の展覧会
ヴァイオリニストを目指した人物が書家になる——なかなか突飛な進路変更のように思えるだろう。しかし、そんな転向があったこそ、書の世界に革新をもたらしたという、極めて興味深い作家が実在した。戦前から戦後にかけて活躍した書家、比田井南谷(ひだい・なんこく/1912〜99年)である。
1912年、神奈川県の鎌倉に生まれた比田井は、書家だった父の仕事を継ぐ前にヴァイオリニストを目指していた。筆者がそれを知ったのは、東京・神楽坂の現代美術ギャラリー「√K Contemporary(ルートKコンテンポラリー)」で開かれている、「線のカタチ-Linework-」というタイトルの企画展を訪れてのことだった。
比田井の書がアヴァンギャルドで刺激的な作風であること自体は以前から知っていたが、ヴァイオリニストを目指していたということをギャラリーで知り、「日曜ヴァイオリニスト」を自称する筆者の興味は大いに深まった。
同ギャラリーによると、この展覧会は「引いて描く」という意味を持つ絵の形態である「ドローイング」(英語の”draw”に由来)を集めた美術展だという。「塗る」のではなく「引いて描く」ことに注目した点が、なかなか興味深い。「引く」という行為の結果生まれた線には、しばしば「動き」が表れるからだ。
現代美術家の作品が多く出品された「線のカタチ-Linework-」展は、書と向き合った比田井の発想を企画の下敷きにしており、比田井の作品数点が会場の中心部で展示されていた。そもそも書の作品は線で成り立っている。その線は「引く」という行為から生まれる。それが「ドローイング」につながる。比田井の作品は、ギャラリーに、現代美術に広がるインスピレーションを与えたのである。
文字であることを解き放たれた「筆を動かした痕跡」
さて、比田井の子ども時代は、西洋の音楽や楽器に興味を持つ人々も多くいたと見られる。ヴァイオリンを弾く天才少女として名を知らしめた諏訪根自子は1920年生まれ、NHK交響楽団の前身である新交響楽団が設立されたのは1926年だ。
ヴァイオリンにどっぷりとはまり、プロを目指した比田井が、父の仕事を継いで書家に転向することになったのは、兄が亡くなったことを受けてのことらしい。ただし、比田井の書家としての才能については、父はその前から認めていたともいう。
ところが、継いで生まれたのは、伝統から大きくはみ出した前衛的な書だった。この展覧会に出品された比田井の作品を鑑賞してみよう。
書には、「常識」がある。まずは墨で書くこと(朱墨の場合もある)。そして文字を書くことだ。文字でないものが書かれれば、「書」ではなく「絵」になるはずだ。墨で描いた「水墨画」というジャンルもある。
しかし、この作品はどうだろうか。真ん中の横棒は漢数字の「一」に見えなくもないが、全体としては、抽象的な記号かなにかの組み合わせのように見える。もう1枚の作品を見てみよう。
比田井が書いた文字は文字であることから解き放たれている。しかし、絵でもない。文字から意味を抜き取り、独自の運動体となったと見てはどうだろう。重要なのは、筆を動かした痕跡であることだ。
比田井が書いたのは線ではあっても、何かの輪郭ではない。動きの痕跡。それは、ヴァイオリンを演奏することで発生する音の痕跡が、音楽を形作る行為に通じる。「日曜ヴァイオリニスト」を自称する筆者は、そこに激しく共感するのだ。
比田井初の前衛書として知られるのは、《心線作品第一・電のヴァリエーション》(1945年、この展覧会には不出品)という作品だ。
近代の前衛書に詳しい評論家の栗本高行氏は著書『墨痕』で、「電」という漢字にインスピレーションを受け、「雨冠を取り去った下部」を「デフォルメし、大きさを変え、位置をずらしながら都合九回、紙面空間に反復した」と説明。さらに、「音楽を通しての西洋との出会いが(中略)《電のヴァリエーション》の試行、言い換えれば、漢字の構成を書き手の主観によって『変奏』するという発想を準備する」と綴っている。だからこそ、音楽的な表現が生まれたのかと、と改めて納得した。
音楽性に溢れた後継者たちの作品
では、比田井に触発されて生まれたこの展覧会のほかの出品作にはどんなものがあるのか。これらがまたなかなか音楽的なのである。
池田剛介の作品は、筋の塊が彩り豊かに配されている。動きに目が喜ばされる。
ペロンミはノートの切れ端などの紙にまるでラクガキのように脳裏に湧いたものを描く。線が自由に動き回っている。その溌剌とした感性を生の状態で感じ取れるのが楽しい。
アーティストの「たんぱく質」は、まさに描きなぐるといった状況の中で、時にキャラクターのようなモチーフを熱心に描く。混沌とした中から美しい旋律が生まれるのは、こうした場面においてなのだろうと想像がふくらむ。
書が音楽を通して自立し、美術に飛翔する様子を想像するのはなかなか楽しいことだと思うのだが、いかがだろうか。
出展作家: 赤羽史亮、池田剛介、今井俊満、小野理恵、熊谷直人、し-没、篠田桃紅、たんぱく質、津高和一、浜田浄、比田井南谷、藤松博、ペロンミ、星川あさこ、弓指寛治、Sohyun Park、ほか
会期: 2021年 8月28日(土)〜 9月20日(月・祝) *日・月定休(祝日は開廊)
会場: √K Contemporary(ルートKコンテンポラリー)
入場料: 無料
https://root-k.jp/exhibitions/sen_no_katachi_linework
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