連載
2026.10.28
【Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画】ピーター・バラカンの新・音楽日記 53

イギリスの伝説のテレビ番組「レディ・ステディ・ゴー」プロデューサー、ヴィキ・ウィカムの功績

ラジオのように! 心に沁みる音楽、今聴くべき音楽を書き綴る。Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画として、ピーター・バラカンさんの「自分の好きな音楽をみんなにも聴かせたい!」という情熱溢れる連載をアーカイブ掲載します。

●アーティスト名、地名を含む諸々の表記は、筆者の原稿どおりにしています。
●本記事は『Stereo』2026年10月号に掲載されたものです。

ピーター・バラカン
ピーター・バラカン ブロードキャスター

ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...

ダスティ・スプリングフィールド「この胸のときめきを」が挿入されたベスト盤(左)
ラベル「ナイトバーズ」(右)

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60年代半ば、毎週金曜日のお楽しみ

1960年代をリアル・タイムで体験したぼくのようなイギリス人にとって、最も影響を受けたテレビ番組の一つに「レディ・ステディ・ゴー」というのがあります。1963年から66年まで毎週金曜日の夕方に、当時は唯一の民放局で放送されていた「RSG」は生放送で最先端のポップ・ミュージックを提供していた画期的な存在でした。そのプロデューサーだったヴィキ・ウィカム(Vicki Wickham)は先日、長年住んでいたニューヨークで、87歳で亡くなりました。

彼女は農場で育ち、寄宿学校を卒業した後ロンドンに出ましたが、最初は映画館の案内係、喫茶店のウェイトレス、オフィスで床掃除までしたそうです。その後BBCでラジオ番組のプロデューサーの助手として雇われましたが、1962年に友人の紹介で会った民法テレビ局のプロデューサー、エルカン・アランの秘書になりました。

「レディ・ステディ・ゴー」はアラン氏の発案でした。大衆文化を広く伝える番組として考えていたのですが、パイロット版を収録している最中に、演奏しているグループの音楽を聴いている若い観客が座席から立ち上がって踊り出したそうです。そこでスタジオにいたアラン氏の14歳の息子が「父さん、椅子は邪魔だ、絶対ないほうがいいよ!」と訴える声を父は真剣に捉え、スタジオ内の席をすべて取っ払いました。結果的にセットも何もない空っぽのスタジオで、毎週応募した若者が出演バンドの目の前で、時々大きなテレビ・カメラにぶつかったりしながら踊っていました。

とりあえず秘書として雇われたヴィキは、番組が本格化すれば直接関わる役割を約束されていました。その前までテレビすら持っていなかったという当時24歳の彼女は、早くも制作も台本作りもゲストのブッキングも担当するようになり、音楽の知識もさほどなかったのに感性がするどく、特にブラック・ミュージックを紹介することに力を注ぎました。

このイギリスの番組から数々のスターが生まれた

RSGの第1回放送で歌ったダスティ・スプリングフィールドとヴィキは大の仲良しになりました。イギリスでまだ一般的に注目されていなかったブラック・ミュージックが好きなダスティは、歌手としても番組のプレゼンターとして何度か登場し、彼女からの紹介でソウルの魅力を感じたヴィキは1965年に画期的なモータウン特集を企画し、スープリームズ、マーサ・リーヴズ&ザ・ヴァンデラズ、スモーキー・ロビンスン&ザ・ミラクルズ、そしてまだ“リトル”だったスティーヴィ・ワンダーがイギリスのテレビの生放送に出ました。

他にもオーティス・レディングの特集の回があって、オーティスがアメリカよりもイギリスで早くにスターになっていたのはその影響が大きかったと思います。当時のアメリカのテレビでは考えられなかったジェイムズ・ブラウンの特集までありました。

66年にイタリアのサン・レモ音楽祭に出かけたダスティはどうしても自分で歌いたいカンツォーネに出会い、ヴィキとサイモン・ネイピア・ベルにその英語の作詞を依頼したのです。一晩で書き上げたその曲「この胸のときめきを」(You Donʼt Have To Say You Love Me)はダスティの唯一のナンバー・ワンのヒットとなりました。

ダスティ・スプリングフィールド「この胸のときめきを」

66年の暮れに、まだ視聴率はとれていたにもかかわらず、音楽の流行が変わりつつあると感じたテレビ局はRSGを打ちきりました。最後の放送の1週前に出演したジミ・ヘンドリックスはまだレコードも出ていなくて、基本的に誰も知らない存在でしたが、その衝撃はいまだに忘れられません。RSGが終わった後、ヴィキはしばらくブライアン・エプスタインが持っていたサヴィル・シアターでのコンサートもプロデュースしたのですが、そこでもジミ・ヘンドリックスの公演を企画しています。

ヴィキがいなければ、ぼくは今この原稿を書いていない

1970年にヴィキはニューヨークに移住しました。ジミ・ヘンドリックスもザ・フーも所属していたトラック・レコードのアメリカ支部を立ち上げ、しばらくその運営をしていましたが、その後RSGに出演したことがあったパティ・ラベル&ザ・ブルーベルズのマネジャーになりました。最初は典型的なガール・グループの雰囲気があった彼女たちのイメージをがらりと変えて、グループ名も「ラベル」にしました。

ザ・フーやローリング・ストーンズの曲などをカヴァーしたり、多様な選曲でアルバムを数枚出した後、アラン・トゥーサントがプロデュースした1974年の「ナイトバーズ」に収録された「レイディ・マーマレイド」が大ヒットとなり、奇抜な衣装の彼女たちが大きく注目されました。ラベルのメンバーの一人、ノーナ・ヘンドリックスはヴィキのパートナーでもあり、最後まで一緒に暮らしていたようです。

ラベル「レイディ・マーマレイド」

ぼく自身は「レディ・ステディ・ゴー」を毎週確実に観ていました。「The Weekend Starts Here」という番組の売り文句はまさにぼくらの信条で、金曜日は学校が終われば何が何でも放送が始まるまでに家に帰るように急いだものです。

10代半ばでモータウン、オーティス、JBなどがあれだけ好きになったのも、もちろん海賊ラジオの黄金時代でもありましたが、あの番組のお陰でした。ヴィキ・ウィカムは自分が特に何をしたいというはっきりした目標もなく、たまたまいいタイミングでその場所にいただけだと回想していたのですが、彼女がいなければもしかしたらぼくは今この原稿を書いていない可能性があると思うと、改めて手を合わせて感謝します。お世話になりました!

ピーター・バラカン
ピーター・バラカン ブロードキャスター

ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...

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