
レニングラード包囲の記憶が残る街で ショスタコーヴィチ《レニングラード》上演

海外のクラシック界のニュースやコンサート、オペラ公演の様子を、現地在住の筆者がいちはやくお届け。今回はロシアの5月の音楽シーンから、サンクトペテルブルクのコンサートをレポートします。

ロシア国立サンクト・ペテルブルク音楽院正規学部卒業。2008年からサンクトペテルブルク在住。サンクトペテルブルク、モスクワなど現地での演奏活動や取材を通じ、ロシア音楽...
『音楽の友』7月号で、5月はショスタコーヴィチを聴きたくなるシーズンであることを書いた。それは、5月9日がロシアの戦勝記念日であり、モスクワの赤の広場で大々的なイヴェントが開かれるからだ。何もこれはモスクワに限った話ではない。ロシア全土がこの日を記念して、戦争で戦った先祖の写真をプラカードにして街を練り歩く。
とくにサンクトペテルブルクは、この日への思い入れが強い街かもしれない。ドイツ軍によって2年4カ月もの間、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)包囲網がしかれ、兵糧攻めにあった過酷な記憶があるからだ。この日が近づくと、街中が戦勝を祝ってオレンジと黒のストライプのリボンや旗で彩られる。黒は煙、オレンジは炎を象徴し、「聖ゲオルギー・リボン」と呼ばれるもので、カバンにつけている人が増える。
さて、5月16日にマリインスキー劇場コンサートホールにて、サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団によるショスタコーヴィチ「交響曲第7番《レニングラード》」の演奏会が行われた。指揮を務めたのは、若手ながら近年注目を集めるザウベク・グカーエフである。
《レニングラード》は1941年、独ソ戦開戦直後のレニングラードで作曲が始められた。戦火の激しさとともにショスタコーヴィチ自身もクイビシェフ(現在のサマーラ)へ疎開、その地で作品が完成された。1942年3月5日、サマーラでサムイル・サモスード指揮ボリショイ劇場管弦楽団によって初演。サマーラは現在、音楽の盛んな街として知られるが、それは戦時中にモスクワのボリショイ劇場がここに避難して、音楽文化が定着した経緯があるからだ。
《レニングラード》は1942年8月9日に、レニングラードでも初演される。まさにレニングラード包囲の最中であった。街に残っていたレニングラード放送交響楽団(現在のサンクトペテルブルク・フィルハーモニーの二つ目のオーケストラの前身)と、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団のメンバーが疎開先のノボシビルスクから呼び寄せられ、危険を顧みずに演奏を行った。今でも語り継がれる伝説的な演奏だ。
今でもペテルブルクでは、その演奏の持つパワーに意味を感じずにはいられない。「あの演奏を聴いた時に、街が完全に破壊されるという不安から、勝利できるという安心感に変わった」。レニングラード包囲を経験したサンクトペテルブルクの人々が口々に言うのだ。音楽の持つ力が発揮されたのだろうと心が熱くなる。

ふだんにはない緊張感に包まれた会場
今回マリインスキー劇場で演奏された《レニングラード》も、また心を揺さぶられる演奏となった。その一つの功績は、演奏者だけによるものではなかったので書いておきたい。
会場の8割ほどが軍服(制服)姿の男性陣だったのだ。制服姿の聴衆グループが演奏会にいることはロシアでは珍しいことではないが、今回はその数が圧倒的だった。しかも、「楽章間で拍手をしない」というマナーも持ち合わせていた。会場でもその異様な光景が話題となった。
後で劇場関係者に聞いてわかったのだが、なんと彼らは兵士たちだったのである。静かに集中して音楽を聴いている様子は、ほかの聴衆にも伝染し、聴いているうちにいろいろな思いが込み上げてきた。はたして、兵士たちはなにを思ってこの曲を聴いただろうか。演奏会場に一種独特の、ふだんにはない緊張感を生むきっかけとなった彼らに対して、単に演奏会が特別なものになったと喜ぶことはできない複雑な思いがよぎった。
ロシア人聴衆の何人かに話を聞くと、「兵士がここでこの曲を聴くことは彼らの慰めになる」、「我々も、国を代表する彼らへの誇りと感謝の気持ちをもった。そうした思いが演奏会に一体感を持たせることになったのではないか」と話した。
演奏会は総立ちのスタンディング・オヴェーションになり、会場全体が今までに経験したことのないような一体感に包まれたのである。さまざまな思いが交錯する中で、《レニングラード》という曲が、聴くものに圧倒的な肯定感を与えているようにも思えた。





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